LOGIN―――現代 日本―――
翌朝、由奈は昨夜の小説のことが頭から離れなかった。
「ママ、水筒忘れてる」「あ、ごめん要」
「ママ、体操着どこー? みつからないよー!」
「待って、明日香! ここにあるから!」
慌てて息子の水筒をカバンに入れる。 下の娘にも体操着の入った手提げ袋を持たせる。だが由奈の脳内は完全に『異世界モード』だった。
夫の態度に似た王様。
あの高圧的な王様がどうなるか。 昨夜スマホの向こう側で起きたことが、本当だったのか。 それとも疲れによる目の錯覚だったのか。 その問いが由奈の頭の中をぐるぐる回っている。「いってきまーす」
元気に飛び出していく子どもたちを見送りながら、由奈は思う。
(……一番変わってほしいのは、無言で出ていく夫よ)
「いってらっしゃい」と声をかけても、晃は顔を上げずに靴を履き、そのまま玄関を閉めた。
これといった返事もなく、挨拶もそっけない。 いつものことだ、と言い聞かせても、寂しさは消えない。静かになったリビングで、ふう、と溜息をつく。
洗濯機を回し、朝食の食器を片付ける。 その手つきは機械的だ。「……ほんと、うちの旦那と王様って似てるよね……」
由奈は苦笑した。
どちらも不器用で、言葉が足りなくて、相手を傷つけていることに気づいていない。
その違いは、王様には側近たちがいるということだけ。 晃の場合は、指摘する相手が由奈だけなのだ。だからこそ、あの王様への苛立ちがひとしおなのだろう。
自分の家庭の映し鏡を見ているような、そんな気がしてならない。家事を片付けながら、由奈は昨日の作品について考え込んでいた。
洗濯機を回しながら、頭の中では作家分析が始まっている。『聖剣の継承者と地獄の門』
『魔導学院の落ちこぼれが大魔法使いになりました』 『竜騎士と天使の誓い』どれも面白かったが、共通するパターンがある。
由奈は、その作者の癖を知っていた。 何度も読み返した痕跡が、脳裏に刻まれている。「そうそう! この作者さん、いつも序盤で主人公が致命的なミスをするのよね」
由奈は洗濯物を干しながら呟いた。
ハンガーに服をかけながら、脳内では過去作のシーンが次々と蘇る。「で、第3話あたりで必ず恋愛関係の修羅場が来る。主人公が複数のヒロインに同時に好意を寄せられて、全員を傷つけるような発言をして――」
そこまで考えて、由奈は手を止めた。
洗濯ばさみを持ったまま、固まる。「まさか……今回も?」
慌ててスマートフォンを取り出し、『アルカディア王国戦記』の作品ページを開く。
嫌な予感がして指が震える。 作品情報をスクロールして、キャラクター紹介の欄を見た瞬間、目が釘付けになった。「やっぱり! キャラクター紹介に后候補3人いる!」
リディア・フォル・ノルトハウゼン(北国の氷の公女)
セレス・アルティナ(神殿の聖女) カリナ・ヴァルニール(貴族出身の女騎士)「これは……絶対やらかすパターンじゃない!」
由奈は確信した。
この作者の癖を知っている。 主人公は間違いなく、3人全員に致命的な失言をして修羅場を作る。 それも悪気なく、本人は気づかないまま、地雷を踏み抜く。だが――由奈の脳裏に、昨夜の不思議な体験がよみがえった。
画面が点滅して、王の発言が変わった瞬間。「自分の声が届いた?」としか思えないあの一件が頭から離れない。
あれは、夢じゃなかった。
確かに、画面が変わり、王の言葉が変化した。 それは由奈の指摘を受けてのことだったように見えた。「いやいや、まさかね……」
由奈は手を止めて、天井を見つめた。
理屈では考えられない。 だが、感覚では確信している。あれは本当だった。(もし、本当に声が届くのなら……)
由奈は決意した。
戦う場所はスマホの向こう、そして自分の脳内。 相手は、不器用すぎる王様。 自分の武器は、主婦の人生経験と、大量に読んできた小説の知識。そして――もう一つ。
昨夜、王の言葉が変わったという、この不思議な繋がり。
「よし……やってやる!」
由奈は一つ頷き、拳を握った。
洗濯物は取り込まずにそのままになった。 家事の手は止まったまま、頭の中では既に作戦会議が始まっている。この后候補イベントをうまくやらないと、本当にヤバい。
王様は間違いなく三人の女性を傷つけるだろう。 それは小説としての快感ではなく、もはや他人事ではない予感がしていた。なぜだろう。
これまで何度もこの作家の修羅場を楽しんできたのに、今回は違う。 あの王様の顔が、晃の顔に重なって見える。第2話の更新を待った。
午後3時、更新通知が来た。
スマホが震える。 由奈はゴクリと唾を呑んだ。『第2話 謎の声の正体』
急いで読み始めた。
指が震え、心臓が早鐘を打つ。 画面をスクロールする手が、止まらない。どんなことが待ち構えているのだろうか。
そして、昨夜の「奇跡」は本当だったのか――
――― 王宮 中庭 ――― レオンは、心の中でカヤに呼びかけた。『カヤ! 助けてくれ! 何を話せばいい!?』 その声は、まるで戦場で援軍を求めるような——いや、それ以上に切実だった。 しかし、レオンはハッとして足を止めた。(待て。約束では、カヤと話す時は私室か執務室のみ……) レオンは、後方のシグルに視線を送った。 シグルは、レオンの視線に気づきすぐに理解した。(陛下、もしかしてカヤ様と話したいのか?) シグルはわずかに頷いた。 そして、音を立てないように静かに、レオンのそばへ歩み寄った。「陛下」 シグルは声を落として呼びかけた。「どうぞ、遠慮なく。私が周囲に気を配ります」 レオンはすぐには答えなかった。 答える代わりに、シグルをじっと見つめた。「約束を破ることになる」「緊急事態です」 ためらいが混じった、低く絞り出したような声に、シグルは小さく笑った。「それに陛下のその表情を見れば、誰でも助けたくなります」 レオンは、少し顔を赤くした。「……感謝する」 シグルは、リディアの方に向き直った。「リディア様、少々お待ちください。陛下が庭園の様子を確認されております」「ええ、構いません」 リディアは、優雅に頷いた。 エルザは、その様子を鋭い目で観察していた。(陛下とシグル様……何か、話している?) 一方レオンは、シグルの配慮に感謝しながら、カヤに呼びかけた。『カヤ、頼む。助けてくれ……何を話せばいい?』 *** ――― 現実世界 小林家 リビング(同時刻)――― 由奈は、スマホを握りしめていた。 その時、小説の更新通知が来た。
――― 王宮 執務室――― 浄化儀式の日程が決まったその日、レオンにはもう一つの予定があった。 シグルが、予定表を手に尋ねた。「陛下、準備はよろしいですか」「……ああ」 レオンは、明らかに気が重そうだった。 その表情は、まるで戦場に向かう前のような——いや、戦場よりも緊張しているような表情だった。「リディア様との、初めての散策でございます」「わかっている」 レオンは小さくため息をついたつもりだったが、シグルには大きなため息に聞こえた。 シグルは、その様子を見て眉をひそめた。「陛下……あの、大丈夫ですか?」「……何がだ」「いえ、その……昨夜から、執務室で何度も独り言を言っておられたと聞きまして」「独り言?」「はい。『散策とは何だ』『会話を楽しむとは』『花について何を言えばいい』と……廊下まで聞こえていたそうです」「なっ……」 苦笑いを浮かべたシグルの言葉に、レオンはわずかに顔を赤くした。「……そうか、聞こえていたか」 レオンは、昨夜から悩んでいた。 戦術会議なら得意だ。 戦場なら、敵の動向が読めれば、自分の感覚を信じて剣を振るえばいい。 敵が100人いようが、1000人いようが、剣を振るえば解決する。 しかし――(「散策」で「会話を楽しむ」とは、一体どういうことなのか? 剣では解決できない……!) レオンの頭の中は、混乱していた。 シグルは、レオンの緊張した横顔を見て恐る恐る聞いてみる。「陛下。念のため、お聞きしますが……『散策』の意味は、ご理解されていますか?」「当然だ」 レオンは、即答した。「庭を歩くことだろう」「はい。それで、その間に?」「……歩く」「他には?」「景色を、見る?」 レオンの非常に自信のない返答にシグルは、深く息をついた。(やはり、何もわかっていない……!)「陛下。散策とは、お相手と会話を楽しみながら、親睦を深める時間でございます」「会話……」 レオンは、重々しく呟いた。 まるで『戦争』という言葉を聞いたかのような重さだった。「はい。リディア様のお話を聞いたり、陛下のことをお話ししたり……」「俺のことを? 何を話せばいい?」「例えば、陛下のお好きなものとか……」「好きなもの……」 レオンは、腕を組み真剣に考え込んだ。「……剣だな」「他には?」「
――― 異世界 王宮 執務室(夜)――― レオンは、一人窓の外を見つめていた。 月明かりが、彼の横顔を照らしている。 しかし、その表情はいつになく険しかった。 シグルは彼の後ろで息を潜め、王の決断を静かに待っていた。「シグル」「はい」 レオンは窓から目を離さず問う。「お前は、どう思う」 レオンの問いに、シグルは慎重に答えた。「……神官長の懸念は、理解できます」「そうか」 レオンの声は、どこか疲れているように聞こえた。「ただ……」 シグルは言葉を選んだ。 一瞬、躊躇するような間があった。「創造神を『異質なもの』と呼ぶことには、抵抗があります」 レオンは小さく笑った。「お前は、カヤを信じているんだな」「もちろんです」 シグルは即答した。 その声には、一点の迷いもない。「陛下を、ここまで導いてくださった方です。私は、カヤ様を信じております」 レオンは、窓の外に広がる星空を見上げた。 無数の星が、静かに瞬いている。(カヤ……お前は、どう思う?) レオンは目を閉じ、心の中でカヤに語りかけた。 レオンは、息を止めて数秒待った。 やがて——由奈の声が響いた。『……うん、聞こえる』 レオンの肩から、わずかに力が抜けた。(神官長が、お前のことを「異質なもの」だと言っている)『……そうだね』 由奈の声は、少し震えていた。 不安と、何か決意のようなものが混じっている。(浄化儀式、というものを提案された。お前はどう思う?) 由奈は、しばらく黙っていた。 レオンは、その沈黙を待った。 彼の手が、無意識に窓枠を握りしめている。 やがて、由奈の声が聞こえた。『……王様。浄化儀式受けて』(何?) 思いもしない返答に、レオンの眉が上がった。『ここで拒否したら、きっと神殿が敵に回る。セレスからの信頼も失って、民衆もあなたを恐れるようになる』 由奈の声は必死だった。 まるで、何かから守ろうとするような強い意志が感じられた。『こういう場合、そういう展開になりやすい。特に国を担う人が浄化を拒否すると、「悪神」と揶揄《やゆ》されて、味方が次々と離れていくわ』 レオンの表情が、複雑に歪んだ。(だが……)『お願い、信じて。この先の事は大体読めてる』 由奈は続けた。 その声は震えながらも、どこか確信
――― 異世界・アルカディア王国 神殿――― 白い大理石の柱が立ち並ぶ神殿の奥、厳かな祈祷室で神官長・オズワルドは、一人跪いて祈りを捧げていた。 彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。 その目には、『祈り』というよりも『執着』に近い光が宿っていた。「……やはり、何かがいる」 オズワルドはゆっくりと目を開けた。 彼は最近、王の周辺に妙な「気配」を感じていた。 正確には、王が后候補たちとの面談を成功させた頃から——王の言動が、まるで別人のように変わった。 (あの方は、何かの巨大な力を得た) オズワルドの胸の内には、好奇心と羨望が渦巻いていた。(その力が何なのか、暴かねば) 彼は数日前から、密かに部下を使ってレオンとシグルの周辺を探らせていた。 しかし、決定的な証拠は掴めていない。(ならば、この目で確かめるしかない) オズワルドは祭壇に飾られている聖水に向かい、手を翳《かざ》した。 水面に静かに波紋が広がり、神聖な光が彼の手のひらから溢れ出す。 それは、通常は邪悪なものを探知するための神殿秘伝の術。 光は祭壇を越えて、王宮の方角へと流れていった。 そして—— オズワルドの目が、見開かれた。(これは……!) 光が映し出したのは、邪悪な闇ではなかった。 かといって、神々しい聖なる光でもなかった。 それは今まで見たことのない、不思議な光。 透明で、しかし確かに存在する。 温かくも冷たくもない、中立的な輝き。(何だ、これは……?) オズワルドの口元が、わずかに歪んだ。 期待と欲望に満ちた笑みだった。(これが、陛下に力を授けているものか。ならば……) オズワルドの心に、ある考えが芽生えた。この力を、自分も手に入れられるのではないか。 そんな可能性に、彼は心を躍らせた。(まずは、接触する機会を作らねば。そのためには……) オズワルドは、静かに立ち上がり、法衣の裾を払った。 「陛下のため」という大義名分さえあれば、近づくことは容易い。 ―――数日後の王宮・謁見の間――― オズワルドは、レオンとシグルの前に跪いていた。(ついに、この時が来た) オズワルドの胸の内では、期待が高まっていた。 しかし、表情は神官長としての厳かさを保っている。「陛下。どうしてもお伝えしたいお話があり、参上いたしました」
(あの頃の晃は……) 由奈は過去を思い出しながら、涙をこぼした。 迷いなく決断してくれた。 私の背中を押してくれた。 強くて、頼れる人だった。 でも、今は違う。 晃は迷っている。悩んでいる。弱っている。 (でも……) 由奈は机にスマホを置いた。 (いつから、自分たちは会話を無くしていったんだろう) ―――4年前 小林家リビング―――「ねえ、晃。要の習い事なんだけど……」「なに?」 晃はスマホから顔を上げず、いつものぶっきらぼうな口調で答えた。「サッカーと水泳、どっちがいいと思う?」「どっちでもいいだろ。お前が決めろ」「え、でも要はどっちもやりたいって言ってて……。サッカーはお友達もやってるからって言ってるし、水泳は近くに新しく出来たスポーツセンターで出来るし……。晃はどっちがいいと思う?」「だから、お前が決めていいって言ってるだろ」「……」「いつもそうだな」 晃はスマホの画面を切り、由奈に目を向ける。 その目はいつも以上に冷たかった。「夕飯何にする、旅行どこ行く、家具何買う——全部、俺に聞いてくる」「だって……晃が決めてくれた方が……」「そんなものも自分で決められないのか」 由奈は、その言葉に凍りついた。「……そ、それは」「俺はお前の上司じゃない。その位自分で考えて決めろ」 晃はそう言うと、部屋を出て行った。 由奈は、呆然とその場に座り込んだ。 私……間違ってた? 晃に決めてもらうのが、当たり前だと思ってた でも……晃は、それが嫌だったんだ それから、由奈は晃に何も聞かなくなった。 いや、聞けなくなった。 「自分で決めろ」と突き放されるように言われるのが怖かった。 だから、小さなことも大きなことも、全部一人で抱え込んだ。 そして、夫婦の会話はどんどん減っていった。 ――― 現在 小林家 リビング―――(あの日から……私たち、ちゃんと話してない) 由奈は、スマホの画面を見つめた。 先ほどのシグルの言ったセリフが蘇る。『あなたは変わったのではなく……成長されたのです』 『昔のあなたは、確かに迷いなく決断されました。しかし、それは他者を信じず、他者の痛みを理解しない、孤独な決断でもあった』 『今のあなたは、迷われ悩まれる。しかし、それは「相手の立場を想像し、人を信じられるようになった
―――現実世界 小林家 リビング(夜)――― 由奈はスマホを握りしめたまま、涙をこらえていた。 画面には、『アルカディア王国戦記』最新話の文字が表示されている。 シグルとレオンの過去——10年前、優柔不断だったシグルが、迷いなく決断する若きレオンに惹かれた話。(シグルさん……) 由奈の胸に、ある記憶が蘇った。(私も同じだった) ―――14年前 東京・派遣会社の事務所――― 当時、由奈は24歳。 大学卒業後、就職活動に失敗し派遣社員として働いていた。「派遣先のこの契約、来月で終了なんだけど……」 派遣会社の担当者が、申し訳なさそうに告げた。「次の仕事どうする? 地元に戻る? それともこのまま東京圏で探す?」 由奈は答えられなかった。「その……まだ、決めてないです」 実家は静岡。 両親は「戻ってきてもいいのよ」と言ってくれている。 東京《ここ》にはまだ可能性がある気がする。 でも、派遣を続けても先が見えない かと言って、地元に戻ってもやりたい仕事があるわけじゃない(どうすればいいんだろう。どっちを選んでも、何かを失う気がする) 由奈は、毎日同じ問いを自分に投げかけては、答えを先延ばしにしていた。*** ある金曜日の夜、派遣先の会社で送別会があった。 退職する同僚のための小さな飲み会。 由奈は隅のほうで、黙々とビールを飲んでいた。「ずいぶん、暗い顔してるな」 突然、隣に座った男が声をかけてきた。 晃だった。 同じ派遣会社から来ている技術職の男性。 仕事では何度か顔を合わせたことがあったが、まともに話すのは初めてだった。「……そう見えますか?」「ああ。何か悩んでるのか」 晃の口調はぶっきらぼうで、正直あまり感じが良くなかった。「まあ……も